バリの事、画家の事        

2001年 宮崎県立美術館 個展カタログより


「井山忠行展:熱帯」への期待   (財)宮崎県芸術文化協会 会長 黒木淳吉

 私の手元に井山忠行の“BUNYI GAIB GAMELAN”のカタログがある。20008月にインドネシア・バリ島の、ネカ美術館で開催された「井山忠行展:ガムランの響き」の折、井山忠行の一年先輩にあたる杉谷昭人を中心に編まれたものである。

 ページを開いて、私は弾けるような色彩に身をよじった。暗黒から、いきなり陽光をまともに受けたような、激しいよろめきを全身に感じたのである。かつて国立民族学博物館で味わったガムランの響きが甦ってきた。情熱的で、宗教的で、あっけら的で、ひろがりがあって、中心にかえっていく。不思議な、襟を正すような敬虔さにおちいる。私は、インドネシアに関する経験は全くない。ガイドブック的な、かなしいような知識だけだ。彼はバリ島に1989年に出掛け、そのまま住みついたという。全身で受けとめ、吸収し消化し、そして描き、苦悩し、またキャンバスと対い合う。そんな繰り返しの中から、「ガムランの響き」は生まれたに違いない。

 カタログの中の井山忠行のポートレートが物語る彼の変貌。私が彼を知ったのは、1953年ごろ、県立図書館であったと憶う。県庁側、楠並樹通りに“こども室”の入口があった。入口に瑛九の壁画があり、こども室は瑛九の作品で飾られていた。当時の館長は井伏鱒二門下で、その実力を太宰治と並び称されていた中村地平で、花と絵の図書館をモットーに、児島虎次郎、塩月桃甫をはじめ、多くの絵が飾られ花で彩られていた。

 井山忠行はこども室入口の前にある私の勤務場所にひょいと顔を出して、独特な笑顔を浮かべていた。時折、瑛九の壁画をじっと凝視しているのを私は見ている。瑛九を尊敬していた加藤正も顔を見せていた時代だった。

 やがて彼は1955年、県立図書館で個展をひらき、私たちを驚かせた。そして翌年東京に移り、デモクラート美術家協会に入ったというハガキを受けた。そして埼玉に移り熊本県東洋村に帰り、熊本市へ、さらに熊本県津奈木町で養鶏場をひらいたと耳にする。約10年あと、彼は旅に出る。その途次、バリ島に住みつく。

 彼のカタログのなかで、バリの詩人K ユリアルサ、I ジョーンズ(共作)は、彼の作品について、つぎのような言葉を刻している。

  「自分の行く道を決めてしまったら、/もう別の道を選びなおすことはできない。/一日一日は日ごとに新しく、/どんな小さなささやきも、告げてくれる行く先はいつも異っている。/たぶんそれは、わたしの心の底にある焔のせいだ。」

 今回、その焔を「沈黙の闇を照らすトーチ」として描き続ける彼の作品「熱帯」が、彼の故郷の一つである宮崎で、個展として開催されるという。異国の物珍しさを見るだけでなく、私は井山忠行が1954年ごろからどのように変貌したかを期待しながら、画面を見つめたい。

 

 

ごあいさつ   在デンパサール駐在 領事  城田 実

 私がバリ島領事として赴任後間もなく、スハルト政権が崩壊し、政治的・経済的混乱の中で、私は在留邦人や観光客の安全確保などに忙殺されていました。バリ島でも高騰するミルクや医療品が買えず困惑する人々を目にする日が続きました。そのようなある日、私はある街角で美しく着飾った男女が粛々と進む祭列に出くわし、一瞬、そこにこの世のものとは思えない日の光が射し、その厳粛さ、その静かさに別世界に飛びこんだのではないかと錯覚したほどでした。「天上の国を地上に映した島、バリ島」という謳い文句が私の頭をよぎりました。

 そのバリ島で、私はバリ島美術界を代表するネカ美術館で個展を開催される直前の井山忠行氏にお会いし、氏の生活や芸術やバリ文化に関するお話を伺う機会を得ました。氏はバリ島に足かけ12年暮らし、バリ島の人々の生活―村人達が集うなごやかな暮らしぶり、椰子の若葉を夜なべで編んだ供物を家の所々に供える主婦の姿、世界中で最も精神的に健全だといわれる子供たちの笑顔―について話をされました。私は氏の芸術家であると同時に一人の人間としての透き通った視線におおいなる共感を覚えました。

 この個展で井山氏は、日本の古事記・日本書紀の最も古い物語に題材を取った作品を数点出品されました。戦後の欧米化される日本、急速な経済成長のなかで、ともすれば失われ、忘れ去られる日本の文化、遠い昔の私たちの国をもう一度落ち着いた神々しいものにする心情にあふれ、それは又、井山氏がバリ島を愛すると同じようにわが日本人としてのアイデンティティーをさぐる観点でもあるように思われました。

 バリ島は人口300万人で、年間その人口の半数を超える150万人余の観光客を世界中から集めています。観光の隆盛によって、バリ島文化はますます発展しています。しかし、そのような表面は又、裏の影の部分も持っています。西欧文化の波は容赦なくバリ島の岸辺を洗っています。ここにも又、われわれの国、日本と同じような問題によって悩んでいるバリの人々がいます。

 今回、現地のメディアが井山氏の個展を大きく取りあげ、問題を提起したのも、バリの人々が井山氏の芸術家としての態度に精神的に通じるものを感じ取ったからだと思われます。

 井山氏が生まれ故郷の宮崎で個展を開かれると聞き、そこが日本の神々の土地柄であり、バリ島と同じように日本有数の観光地ということで、この共通点により、多くのバリ島の人々に感銘を与えた画家が郷里の、そして日本の多くの人々に同じような感動を与えてくれるものと信じています。

                 2001110日   インドネシア バリ島