元祖ヒッピー 山田塊也


「赤道直下に、ヒンドゥー教の美しい島がある」という噂を耳にしたのは、かれこれ四半世紀も前の事。この世にユートピアなどないことは百も承知の上で、旅人たちはユートピアを求めて彷徨い、パイオニアたちはユートピア建設を夢み、汗を流す。ユートピアとは、えてして当人の生まれ育った環境と正反対の世界でもある。砂漠の民にとって水と緑がユートピアの第一条件であるように、雪深い山国に生まれ育った私にとって「赤道直下」、「ヒンドゥー教」、「美しい島」という3つのキーワードは、胸踊らすに十分すぎるほど十分だった。私の南方憧憬は、1960年代の中葉、当時日本の最南端だった奄美群島を訪れたことに端をなす。

 

初めて見る珊瑚礁と白砂の海、村々の素朴なたたずまいと親切な人々。開発や観光化以前の南の島の原風景が、最後の残照を輝かせていた。

  アジア大陸の東岸、太平洋の荒波に運ばたような大小無数の島々を、インドネシア、ミクロネシアなどの島嶼(ネシア)群との連なりの中で位置付け、日本列島を〈ヤポシア〉、南西諸島を〈リューキューネシア〉とよぶ文化人類学的なパラダイムを持って、私がリューキューネシアの一角に棲みついたのは、沖縄返還に伴う巨大開発と観光公害などによって、島々が大きく変貌してゆく頃だった。

  その間、私は〈島宇宙的制約〉からの解放を試み、たびたびインド亜大陸を訪れ、マクロな混沌と神秘的な秩序に深い感動を味わった。しかし、それらは何処もユートピアではなかった。栄光の陰には悲惨が、天国の隣には地獄が、楽園の背後には搾取と抑圧があるのを見ないわけにはいかなかった。

  南方への長い放浪の果てに山深い故郷に帰ってみれば、そこはわが国でも屈指の観光リゾート地と化し、昔日の風景は消え去り、伝統保存会の祭ばやしも何やら侘しい

  いまや東洋一のリゾートと化したバリ。しかしなぜかその感動を再び実感できるかも知れないという期待を胸に、私はバリを目指した。

  雨期明けの真近のバリに到着したのは夜の8時半。機内から一歩踏み出たとたん、ムーツと来る熱気と湿気は、そこが赤道を越えてやって来たトロピカルワールドであることを実感させる。私がバリを訪れたのは3月上旬。わがヤポネシアの山国はまだ残雪の中であった。

 

芸能と芸術の至高点―ウブド

  ングライ空港からタクシーでほぼ1時間。芸能と芸術の中心地といわれるウブド地区にある東部プリアタン村に、ひとりの日本人画家を訪ねた。

  氏が常宿としているマンダラバンガローは、当地の王族の子孫が経営するもの。一族の長であったマンダラ翁は、バリ芸能を世界に紹介した偉大な功労者であり、有名なティルタ・サリ舞踊団などは、ここを本拠地としている。だから、海外から音楽や踊りを習いに来る人々の多くは、このバンガローに滞在する。件の画家氏も、7年前からバリに魅せられ、1年の半分はバリにいるということだったが、さらに現在バリにアトリエを建設中だとか。彼のおかげで、マンダラ一族のスペシャル・ゲストとして迎えられた私は、毎晩のようにガムランの練習を聴き、踊りの稽古を眺め、、バンガローで働く人たちや出入りする隣人、歌舞団のスターたちや海外からの旅人などとの出会いを通して、カースト制度や生活様式、社交、祭儀、芸能、アートなどに加えて、ヒンドゥー教のバリ風デフォルメ―ションなどを観察することができた。

  学問と芸能の女神であるサラスヴァティの祭りの当日、私は村の王族であり、村長であり、治療師(呪術師)でもある有力者の家を訪れた。そこはひっきりなしに供物を捧げにやってくる村人たちや、私たちのような遠来の客人などでごったがえし、終日一大社交場となっていたが、人々は階層を超え、親しく語らいあっていた。

  ここでは、下位カーストの者が調理した食べ物を、上位カースト者が口にしてはならないという、インドヒンドゥー教の厳格なタブーなど通用しない。島宇宙の秩序に従い、共同体社会の調和と助け合いのなかで育まれた感性にとって、差別や抑圧は「不自然」なものに違いない。

  祭りというのに酒もなく、学問と芸能の女神たちの祭日とあってか、この日は歌舞音曲すら禁止。しかし彼らは心と心が触れ合うだけでナチュラル・ハイになり、心ゆくまで人生を楽しんでいるように見受けられる。ちなみに世界で一番ストレスの少ないのは、バリ人だという。

  この心豊かな人々のバック・グラウンドを拝見しようと、熱帯の朝に早々とサンダルをひっかけて「ジャラン」(通り)に出て「ジャランジャラン」(散歩)すれば、朝日をあびる水田風景が郷愁を呼ぶ。特に傾斜面に階段状に拡がる棚田(ライステラス)の美しさは、わが国の山間部からほとんど消えてしまった風景だけに、懐かしさもひとしおだった。

  三毛作、四毛作が可能なバリでは、青田が繁る隣で田植えが行われ、そのまた隣では稲刈りをやっている光景も見られるというわけ。耕運機もトラクターもなく、動力は牛と水牛と人とアヒルたち。農薬も化学肥料も施さない自然農法のかたわらには、清らかな小川が流れていて、時には豊かな乳房をあらわにした娘たちが、沐浴や選択をしていることがあて、私はあわててカメラを隠す。

  念願のケチャやバロンなどの「ミュージカル・ショー」を観て、私は拍手を惜しまなかった。保存会によって辛うじて形だけ守られているわが国の郷土芸能とは違って、バリのそれは村の生活と祭りに密着しながらも、重要な観光資源として常に創意工夫がこらされ、第一級のエンターテイメントとして競い合い、観客の要求に応じてショウ・アップするなど、若さと活気に満ちている。

  夜の華やかなスターたちは、昼間はライステラスの農民である。役者が同時に観客であり、皆が皆「観る喜びと、観られる喜び」の両方を知っている。バリ人の集団的無意識を形成している、この「喜びの二重構造」こそは、バリ人をして観光化を積極的に受け入れ、ここまで発展させてきた最大の原因だろう。

  観ることは楽しい。しかし観られることはもっと楽しい。一日に何度も衣装を変え、化粧を直し、祭壇や路上に供物を捧げる女たちの溢れるような色気は、そのことを意識しているからなのだろうか。神を観るよりも、神々に観られることは、もっと楽しいに違いない。

  

黒潮島嶼(ネシア)文化の原点―バリ・アガの村

  バリ文化の粋を集めたような中部ウブド地区を後に、次に私が訪れたのは「バリ・アガ」(バリ原住民)の村といわれる、東部のロンボク海峡を望む海辺のエリアだった。

  バリで最も貧しいといわれるこの地区には、まだ電気も電話もない。観光地図には道路さえ記入されていない。実際には北側のアメッドから南側のウジュンまでの約30キロの海岸線には、デコボコながら簡易の舗装道路があり、ベモというミニ・バスも走っている。

  眼下に広がる珊瑚礁とウルトラマリンの海峡の彼方には、岬をめぐるごとに、数十隻から数百隻を超す漁船を浜辺に浮かべた漁村があって、その背景の斜面には、山の中腹まで粗末な民家が点在している。ここはバリの農民の美と豊穣のシンボルであるライステラスはない。

  僻地の一角にやっと探しあてたグッド・カルマ・バンガローは、バリの男性と結婚した日本人女性が経営するもので、お客は口コミのバック・パッカーばかり。彼女もまた、バック・パッカーとして、インドやリューキューネシアを旅していたというから、ここが旅の終点であり、夢の結実点なのだろう。そういえば彼女のつれあいというのがウチナンチュウ(沖縄人)そっくりなのだ。

  そっくりといえば、濃い緑との対比も鮮やかな原色の花々などは沖縄そっくりで、ヤシとソテツさえ取り替えれば、バリの植生はリューキューネシアと大差はない。赤道付近で発生する生命の二大潮流、台風と黒潮にのって、植物や魚や鳥たちとともに、沖縄の祖先もやってきた。「チャンプル」(ごった混ぜ)などという料理方法を携えて。

  夕陽が傾く頃、男たちは船を出す。曲線を描くアウトリガーをつけ、真っ白な船体にカラフルな文様を描き込み、色とりどりの帆をはったその美的センスは、バリ人特有のものだ。

  男たちの出漁を見送った後、女たちと子供たちが浜でくつろぐ姿が、いかにも懐かしかった。満月の夜には村人全員が浜辺に集まり、女と男が掛け合いで歌い踊る。リューキューネシアからはほとんど消えてしまった風景を、ここではまだ見ることができた。

  今や絶滅の危機に瀕している日本の河童、沖縄のキジムナー、奄美のケンムンなどに対して、バリのレヤック(悪霊)たちはまだまだ健在で、特に電気のないこの地方では、闇の世界は完全に彼らの支配下だ。自らも火の玉の行列を見たという、疑似ウチナンチューのダンナは「ここには30年前のバリがある」といったが、私にとってそこは30年前のリューキューネシアそのものがあった。

  スケッチブックとカメラを持ち、私は沿岸道路を歩いて近隣の村々を訪れた。村人たちは道端や畑や家の中から、物珍しそうに未知なる旅人を眺め、好奇心を抑え切れない若者たちなどは現地語で話しかけてくる。日焼けした私の顔には、インドネシアンとヤポネシアンを識別する手掛かりなどなかったのだろう。木陰に集う10数人の一団にカメラを向け、「フォト、オーケー?」と尋ねると、長老は私を制して最前列中央に座り直し、ハナクソをほじっていた指を丸めて「オーケー」と言った。

  ここバリでは老人は依然として「権威」であり、「賢者」であり、彼らは〈グル〉(導師)というヒンドゥー教の最高の敬称で呼ばれている。

  すでに隣村には学校が新築され、沿岸道路をブッ飛ばすバイクの若者たちが現れ、ラジカセがあり、エンジンやナイロンの網を積む漁船が増えている。ここにも確実に「時(カーラ)」の軍勢は押し寄せていた。そしてそれはいつか〈グル〉の権威をも破壊してしまうのだろうか?

 

ユートピアが弱肉強食の生存競争の原理に対する逆宇宙なら、バリのシャンティは何を証すのか?あえて私は言おう。

「ユートピアのモデルはバリに求めよ!」


         コンチネンタル航空 機内誌 1995年 掲載  山田塊也

  

 

「我が友、井山画伯」 矢萩幸雄 


 「絵描きさんに会ってみない」と娘に言われたとき、面倒くさいなと思った。芸術家というとえてして気難しくて、偏屈で、損介弧高で「お前にオレの芸術がわかるか」と見下すような人種だという先入観があるからだ。

「やあ、いらっしゃい」いがぐり頭に無精ひげ、眼鏡の奥の優しい目が笑っている。大きな手が「がしっ」と私の掌を包んだ。これで決まり。私がバリに住みはじめて1年目の事だった。

「やあ、いらっしゃい」いがぐり頭に無精ひげ、眼鏡の奥の優しい目が笑っている。大きな手が「がしっ」と私の掌を包んだ。これで決まり。私がバリに住みはじめて1年目の事だった。

 井山さんとは交際の月日は浅いが密度は濃い。なにしろ毎月のように月例昼食会と称して呑み、食べ、かつしゃべる会を二人で瑛論風発、侃々諤々、口論乙数、歓をつくしているからだ。例えばこんな具合である。その日の雑談は「首から上」と「首から下」がテーマ。「首から下」は肺、心臓、胃、腸など生体維持のため、ただひたすら運動している機関、それと手と足。「首から上」はいわずと知れた脳。この上と下の原理が全く違う。「首から上」は「首から下」が大嫌い。脳は己の意のままにならない、コントロールできない「首から下」と共存出来ない不合理を持っている。井山氏も私も、低能であることに意見一致。珍説、奇説が飛び交い、いつもながら楽しい会であった。と、こんな具合である。

 井山さんと気軽に呼んでいるが、今や、氏は世界的画家。日本より海外で高く評価されている画伯である。なぜ、日本では認められないのか、その理由は簡単。保守的で頑迷固陋な画壇、実態のない権威主義、虚名大家の派に属していないからなど、まったく馬鹿げた話だ。ま、それはとに角、つい先だって井山先生のお宅へ行った。例会である。石だたみの坂をだらだら下る、川に突き当たる、近所のおばさんが沐浴していることがある。向かいの台地が井山邸である。川にかわいい橋が架かっている、この橋の風情がいい。異郷に入っていく気がする。今から画家に会う、絵をみるという気構えが快い緊張になる。門を入ると右手が旧アトリエ、左手が今回新築されたギャラリー、階段を登る。田園は緑一色の自然の風景、いいロケーションだ。

 ギャラリーに入る。入ったとたん、私はワッと声なき声をあげた。「ここに居たい。ずっとここに居たい。」思わずそう思った。グリーンで統一された絵の空間は森に入った時の懐かしさと、いやしに包まれ、空気までが緑色なのを感じた。絵と絵が語りあい、見る者に語りかける。できることなら、ここに寝転がってずっと眠りたいと思った。ギャラリーはこじんまりとした空気に、厳選された作品だけが持つ、のっぴきならない迫力に満ちている。一つ一つの絵が共鳴し合い、不思議なハーモニーを創り出している。井山ワールドだ。この日はグリーン。

 ギャラリーは狭いながらも奥行きを感じさせる。曲折がある壁がいい。絵がそれぞれの個性を発揮できるような仕掛けになっている。屋外のテラスに出る。ここに憩うのもいい。今観た絵の印象を反芻すればなお楽しい。プチ プライベート ギャラリーだからこそ可能な、画家の体温、息づかいが感じられる。井山氏と直接話しが出来るのもいい。このアットホームな気分がいい。

 彼は云う「いまは、ただ絵を書くことが楽しいんですよ。子供のように無性に描きたいんですよ。遊んでいるんですよ。」本物だ。「今の絵なら、パリで世界の絵と闘えると思う。」氏はつつましく、でも自信ありげに言った。

 彼、79歳。ようやく開花した絢爛たる花。本物の芸術家のそばにいて、私(ちなみに87歳)は友であることの感動と喜びを味わった。

 

 矢萩幸雄;子供のころから狩猟が好きな父親に連れられて山深く入り込むなど、山に親しんだ。また、戦後本の編集の仕事などに携わる。