画家と語る10-1

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 今回の滞在予定が40日と短いせいで画家の制作に対する気持ちがいつもとは違う集中力になったのか、古い大作を仕上げにかかった。1999年からの「太陽と雨」「トリニティ」、2002年からの「ダンス」「闘う鳥のダンス」を一気に仕上げる。又、大きいのはもうやらない(体力のせい)と言っていたのに、太陽銀行の壁画を外した後の木枠に、新しいカンバスを張って「黒髪」の100号と、「火」のカンバスに「灰」を描き始めた。「黒髪」は、ピカソの「花の女」と「生きる喜び」を借りてやっている。木炭でデッサンした後パステルで色の感じをつかんで、めずらしく背景をグレイで塗り始めた。昨日は暗くなって来てそこでストップ。今朝、いつも通りベッドから外を眺めて、「一枚のカンバスに描き始めた時が一番楽しいね」と言って起きる。寝る前と、目覚めた時、いつも今描きかけの絵が頭にあるらしい―――こうしてピカソを先生と呼ぶ。

 ジャコメッティは「禅」に行っちゃったんだよね。「いつも見れば見るほど対象が遠くに行く」と言うジャコメッティの作品を画家は「禅」と言う。私はそういう見え方のするジャコメッティの精神的あり方が面白いとは思うが、「禅」だとは思わない。彼独自の、どうしようもない彼の見え方だと思う。

 

 山下夫妻のためにクタの豪華ホテルに予約を入れた。希望の日はジャカルタからの予約がいっぱいで空いていなかった。それで他の日に予約。以前、日本のお盆の様なイスラムのお祭り「イドゥルフィトリ」の日にクタに泊まった時、アジア人ばかりのリゾートホテルというのが、何か華やかさに欠けて、食事も美味しくなかった記憶があるのでちょっと躊躇したが、それも又バリと思えばこれもいいではないか。ガーデンクイーンバンガロウ。部屋代は半額にする、「他言無用」とのこと。バリの大きなホテルはどこも日本人の営業の女性がいる。

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 ピカソの「花の女」は表現出来る最小限で描かれてあり、マティスの「ズルマ」は全部背景で出来ている。ズルマまでが背景なのね。「黒髪」はこの二つの作品を合わせたように描きたいね。左上の5㎝ほどの水平線の様な塗り残し線の部分に紙を切って当ててみて、結局―消した。これで良い。これで、二つの要素で描かれたものが一つになった。一つしか必要が無い、一つにするべきだ。

 昨夕張ったカンバスをもう始めた。100号。「パパイヤの木」の集大成にしたい。100Fのこの広がりが要るね、周りのこのみどりの広がりが出せる。ネガリの家の周りはどこを見ても確かにみどりだらけ。エントランスは川の上の森の緑、裏は180度見渡す限りの棚田。日本のあのちまちました風景は僕には合わないのね。たったの一輪の花をめでる、あれは僕のものじゃない。日本人は「感覚的」ではあるけれど、芸術の本当の意味、構成とか哲学とかが無いのね。日本で作られた画集何かを見ていても、批評や構成に対する言葉が無い。昔はあったんだがな~口角唾を飛ばして議論したものだが。

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 三島について―今画家が読んでいるのが三島由紀夫論「殉教の美学」磯田光一だが、画家によると、三島が市ヶ谷の自衛隊で割腹自殺した時、時の首相、中曽根が三島のその行為を笑い物にして、大事件扱いしなかった事実は、これはその時の日本の政治にとってとても大事なことで、あそこで三島の言う「日本」を問題にすることは出来なかった。それほど日本にとって大きな問題を三島は提示した。そのころ自意識のまだ開発されていなかった私は、易々と時の判断に同調していたものだ。

 「パパイヤの木」は同じサイズの「黒髪」(100)2枚並べてやっている。なかなか壮観。パパイヤの放射状の線とパパイヤの実の丸。黒髪の曲線と垂直の人体、おっぱいやお尻の曲線。パパイヤの絵の拡がる緑。黒髪の有機的な人体の色と無機的な背景の色。どちらも聳え立っているのは同じ。